いきつけの堤防にまだまだナブラは立っていたのですが、時合いがどんどん短くなり、エサの小魚の集団も小さくなり、ブリ狙いの泳がせで12連続釣果なしだったので、これはもう潮時だろうと今季のブリ狙いは終了としました。
で、軸足をウナギ釣りに移したのですが、去年より釣果が芳しくなく、去年のこの時期は行けば釣れるみたいな状況でしたが今年はボーズも珍しくなし、の状況です。
先々週の土曜日は新規開拓してみたのですが、ナマズが2匹釣れたのみ。そして先週の土曜日は去年そこそこの実績のあった川に行ったのですが釣れたのは良型のナマズが3匹だけという厳しい結果に。
昨日の日曜日は家から自転車で行ける近くの川に行ったところ、最近の不振を振り払う4匹の釣果に大満足。僕の場合、1回の釣行で3匹釣れればヨシとしています。
今日も家事を済ませて昨日の日曜日と同じ川の違うポイントに行きましたが、アタリはあったものの針がかりしなかったり、根に入られたりで釣果は1匹だけでした。昨日行ったポイントにまた行っとけば、と思いたくなりますが、ウナギの場合同じポイントに通えばまた釣れるという感じがしません。ウナギが絶滅危惧種だとは思いませんが、個体数は多くはないのかもしれません。
ウナギ釣りは夕マヅメ~夜限定なので朝の時間帯はフリーになります。夏野菜の準備が最終版になってきたので昨日の日曜日は結局、一日中畑でした。今年は2週間も早く梅雨入りだそうですが、休みの日がちょうど晴天なので畑仕事がはかどります。
ゆくゆくは規模を拡大してガッポリ儲けてセカンドカーを買うのが夢なのですが、『道遠し』といったところです。しかし、(趣味だからですが)農作業は楽しいです。流す汗も心地よい。でも昔と比べると作業の途中に、ヒーとかフーとか大きく息をして休憩に入ることが増えたような。老化でしょうな。
そんなで、ゆくゆくは農業で(できれば法人化なんかもして)大金を得るという目標があるので地元ローカル新聞に別刷りのビジネス新聞みたいなのがあって向学の目的もあり、それを楽しみに読んでいたりします。その中に地場企業の社長の回顧録があってこれも面白いのでよく見ているんですが、この前読んだ回顧録の最終回の最後のところに社長が「日本会議の地元の代表をやってます。自虐的な歴史教育をあらためて若者が誇りを持てるようにしたい」みたいなことを書いてたから、ゲンナリしました。うーんこの社長の店でもう買い物するのやめようか、なんて子供じみたこと思ってしまいました。悪いことをしたらきちんと反省して謝ることができる。そういう人の方がかっこよくありませんか?
日本が先の戦争で他国を侵略したのは紛れもない事実ですよ。過去に国のトップが「侵略の定義は定まっていない」なんてスットボケたことを言ってたのをなんかで見ましたが、中国、東南アジアに軍隊を送り込むことのどこが侵略でないのか。朝鮮人から自分たちの言葉を取り上げ、無理やり日本語を話せと押し付けることのどこが侵略でないのか。他の民族に対する冒涜であり増上慢この上なしです。
僕は歴史は科学だと思います。人間の頭の中なんて過去5千年くらいほとんどかわってないでしょう(おそらく)。思考回路も同じでしょう。だから昔の人がやった過ちを同じように繰り返してしまうんです。それが歴史は繰り返すといわれるゆえんです。でも人間は言葉を話し、文字を操り、過去の出来事を後世に伝えることができます。
過去の過ちをなぜそうなったか詳しく分析して原因を追究し、次の世代に伝えて、人間が同じ過ちを繰り返さないようにする。これが未来への責任だと思います。しかるに「俺、悪くない」と自分が犯した過ちから逃げ、道を誤るに至った経過の分析・再発防止策の立案を行わない、教訓を後世に伝えない。これが責任ある態度と言えるでしょうか。
百歩譲って(いや、譲るも何も事実は動かせませんが)先の大戦が日本による侵略戦争の側面は無かったとして、連合国に追い詰められた日本が「一億玉砕」などという常軌を逸したスローガンを掲げ、市民を巻き添えにした徹底抗戦の構えをとっていたことをどう考えるのでしょうか。
過去の過ちに向き合わない人々がこの国の政治の中枢を占めている現状と、このコロナに対する日本の劣勢は無縁ではないのではないかと僕は考えています。
佐世達哉 記す